「ルーブル・ピラミッド」のご紹介
由緒ある建造物に囲まれた場所に古代の形を写した近未来的な建物があります。
ガラス張りの三角錐の「ルーブル・ピラミッド」は、公開された当初は世界中に賛否両論の嵐が吹き荒れました。この建物は、とても切実な問題を解決するために作られました。
「ルーブル・ピラミッド」の設計者
ニューヨークにオフィスを持つ、中国系アメリカ人のイオ・ミン・ペイ(貝 聿銘)が「ルーブル・ピラミッド」の設計を担当しました。中国の広州で生まれ、裕福な父親の職業の関係で、十歳の頃に住んでいた上海で西洋の文化に触れる機会が多くありました。十七歳でアメリカに渡り、建築を学びましたが、彼の感性には合わない建築様式を教えることが多かったようです。大学に在籍している頃に出会ったヨーロッパの高名な建築家に影響され、ガラスや鉄骨などを使うモダニズム様式の建築家に成長しました。
彼は、第二次世界大戦後にアメリカの市民権を獲得して、自らの建築事務所を開きました。当初はアメリカ国内の建築物を手掛けていましたが、次第にヨーロッパや生まれ故郷の中国での建築にも携わるようになりました。独特の考えを持ち、ガラスやコンクリート等を使い、シャープなシルエットの建造物を作る彼は「幾何学の魔術師」と呼ばれることもあります。2019年に102歳と言う長寿を全うした彼は、最後まで積極的に活動していました。
「ルーブル・ピラミッド」の所在地
花の都と呼ばれるパリは、ファッションの都や芸術の都など、華やかな呼称が付いています。ヨーロッパのほとんどの大都市と同じく、太古から人が住んでいました。パリを流れるセーヌ川の中州に「シテ島」と言う島があり、ルーブル美術館の南東側すぐ近くに位置しています。
古代ローマ人はこの島に住む人々をパリシィ(田舎者、乱暴者)と呼んでいました。紀元前から彼らが住んでいたこの島は、ルテティアと呼ばれていて、ローマの支配下では島の外側にも街が広がって行きました。その頃に敵対する勢力が攻めてきたときには、セーヌ川が天然の堀となって防御しやすかったことから重要な避難先の一つとなっていました。一旦は衰退して島のみの城砦都市となりました。その後、数々の王朝が興っては衰退しましたが、十八世紀にフランス革命が起こり、現在のパリの基盤ができました。
「シテ島」のシテとは、英語ではシティと同義語です。あまり広くない島に多くの人々が暮らしていたので、何事も近隣の人の事を考えて行動していました。このような行動様式から「市民」と言う概念が生まれたと言われています。
「ルーブル・ピラミッド」の特徴
ルーブル美術館は、歴史ある宮殿が世界一の規模を誇る美術館になっています。このお城は大きさがあり、中庭に相当する場所もたいへん広いものになっています。その、広い中庭の真ん中に突如現れた透明感のあるピラミッドは、世界中に議論を沸かせました。
外見とは裏腹に「ルーブル・ピラミッド」が作られた理由は、切実なものでした。大規模な美術館には常に多くの人が訪れるので、いつも混雑していました。これを解決するために新たなエントランスを作ることになりました。古風ではあるけれど、大規模な建築物に取り囲まれるようにガラスの三角錐が出来上がったことは驚きでした。このピラミッドは、地下に造られたエントランスの屋根に相当します。昼は日光の反射で輝き、夜は照明の光で内側から光ります。
「ルーブル・ピラミッド」は、鋼やアルミのフレームに673枚のガラスがはめ込まれています。自然の光を利用した天窓の役割があり、照明の為の電力を減らすことが出来ます。「ルーブル・ピラミッド」の左右には小ぶりのガラスピラミッドが設置されていて、同じく天窓の役を果たしています。自然光を利用したことと、夜間の照明もLEDを活用したことで、照明に掛かる電力が三分の一近くまで減ったようです。
「ルーブル・ピラミッド」のまとめ
ルーブル美術館のそばには商業施設の地下街があります。この地下街には「ルーブル・ピラミッド」の逆になったものが設置されています。規模は少し小さいのですが、地下街の採光のために備えつけられています。フランスの人の粋な計らいが、このような所にも見られるようです。「ルーブル・ピラミッド」が完成した頃は賛否の嵐が吹き荒れていましたが、現在では、歴史ある宮殿とのコントラストが新たな名所となっています。
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