群馬音楽センター(Gunma Music Center)

「群馬音楽センター」のご紹介

 

第二次世界大戦後は町も人の心も荒れ果てていました。その荒んだ風景を音楽で和ませるために「高崎市民オーケストラ」が結成され、ささやかながら活動を始めました。その活動が次第に注目されるようになって、群馬県は当時の文部省から「音楽モデル県」に指定されました。それが本格的な音楽ホールの「群馬音楽センター」を建設するきっかけとなりました。

「群馬音楽センター」の設計者

 

「群馬音楽センター」のデザイン、設計を担当したのは、チェコで生まれ、アメリカや日本で活躍したアントニン・レーモンドです。現在のチェコ中部の街、クラドノで生まれた彼は、首都プラハの大学で建築を学びました。その頃に近代建築の巨匠と謳われるフランク・ロイド・ライトの作品に触れ、強い感銘を受けたようです。大学を卒業してすぐにアメリカへ渡った彼は、ニューヨークで働き、学び、生涯の伴侶であり、仕事上の優れたパートナーとなった女性と出会いました。結婚した時にアメリカの市民権を得てアメリカ人となった彼は、尊敬するフランク・ロイド・ライトの元で働くようになり、間もなく助手として来日しました。しかし、フランク・ロイド・ライトの考えに共感が持てなくなって彼の元を去り、東京に事務所を構えました。関東大震災を経験した彼は、新しい自宅を作った時に日本の伝統的な「蔵」の要素を取り入れたコンクリートの家を完成させました。その家を作った頃にモダニズムの巨匠、ル・コルビュジエに興味を持っていた彼は、簡素なつくりとシンプルなデザインを意識していました。第二次世界大戦の時にはアメリカ軍に協力したこともありましたが、彼はそのことを悲しんでいたようです。戦後、再び来日した彼は日本の復興のために活躍し、日本の近代建築の父とまで呼ばれるようになりました。日本の伝統と歴史を重んじながら新しい建築を心がけていた彼は、1976年、アメリカのペンシルベニアで88年の生涯を終えています。

「群馬音楽センター」の所在地

 

「群馬音楽センター」は北関東の群馬県で1番大きな街の高崎市に建設されています。戦後から音楽活動に力を注ぐ人々がいて、「群馬音楽センター」をはじめ、複数の音楽ホールや劇場があり、「音楽のある街、高崎」と謳っています。江戸時代が終わりを告げ、廃藩置県が制定された時、群馬県の県庁は高崎市に置かれました。しかし、当時の軍部や政治の事情によってすぐに現在の県庁所在地の前橋に移されました。その後、県の統廃合など様々な理由によって再び高崎に県庁が置かれましたが、県庁の建物の都合で再度、隣の前橋へ移動となって市民の反感を買い、裁判まで行われましたが、結局、今に至っています。このような政治上の都合によって翻弄されてきた街ですが、戦国時代には和田城(後の高崎城)が築城されて城下町となり、江戸時代に整備された中山道の重要な宿場町として栄えてきた歴史があります。この街には古くからの特産品として、願掛けや縁起物として有名な「ダルマ」があります。200年以上前から農閑期に作られていたダルマですが、現在は日本一の産地となって、流通する8割以上がこの街で製造されています。17世紀に創建された「少林山 達磨寺」で、毎年1月にたくさんのダルマが並ぶ「ダルマ市」が行われています。

 

「群馬音楽センター」の特徴

 

1961年に完成した「群馬音楽センター」は、今は、乾櫓(いぬいやぐら)だけが再建されている高崎城跡に建設されました。外壁は打ち放しコンクリートで、直線的なデザインのために無骨な印象があります。しかし、上から見た形は神社などで神様に捧げるために和紙で作られる御幣(ごへい)のように見えて、シンプルで美しい形状と言えます。屋根は、折板構造と呼ばれる平らなものを山折りに折り曲げた形で、工場の屋根を思い起こさせるような見た目をしています。屋根の形をそのまま外壁へと繋いでいるので、外壁も鋭い角度の山形になっています。このような形だけを見れば正にモダニズム建築と言えますが、内装は外観の簡素なイメージとは対照的なデザインになっています。正面入り口を入ってすぐの内壁には、カラフルで抽象的な絵が描かれ、コンクリートで小粋な雰囲気を作ることができる見本のように洒落た階段が作られています。ホールは現在の規模で見ても広い、2000席近い広さがあります。舞台から音が押し寄せてくるような視的感覚があって、外観の形をそのまま屋内の形に呼応させています。直線的なアーチ状になっている天井も鋭い角度を持たせ、隙間に照明を埋め込んだ方法は、今でも使われている洗練された雰囲気があります。舞台の両側から客席に続くような通路は、このホールが音楽だけでなく歌舞伎や他の舞台芸術にも使用できるように考慮されていて、舞台と客席が一体化できるようになっています。

「群馬音楽センター」のまとめ

 

「群馬音楽センター」が建設されるきっかけは少数の団員が活動する小さな楽団でした。高度成長期の入り口の頃ではありましたが、自治体には潤沢な予算は無く、建設費用の1部は募金などの寄付によって賄われました。このような経緯も知っていた設計者は「群馬音楽センター」の設計に様々な要素を織り込んでいます。「群馬音楽センター」は、民間の力によって作られた事で、現在も愛される施設と言えるのではないでしょうか。

 

 

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