銀座プレイス(GINZA PLACE)

「銀座プレイス」のご紹介

日本における繁華街の代名詞と言える街が銀座です。西洋文化と初めて出会った頃のカフェーの先駆けとも言われるお店があった場所に、新たな銀座のランドマーク的な建物が出来ました。「銀座プレイス」は銀座の中心部に建っています。

「銀座プレイス」の設計者

「銀座プレイス」の設計はイギリス人とイタリア人の二人が運営する「クライン・ダイサム・アーキテクツ」が担当しました。アストリッド・クラインは1963年にイタリア北部の街で生まれました。ヨーロッパの複数の国で学んだ彼女は、日本の伝統的な工芸や手技に魅了され1988年に来日しました。現在は事務所の運営に加えて、東北の被災地の人々が元の暮らしに戻れるよう、地域共同体の拠点を整備することを目的とした団体の理事も務めています。マーク・ダイサムはロンドンの北西にある街で1964年に生まれました。新しい物を生み出す過程が好きだった彼は、大学で建築を学んだ後、最新のものを求め続ける国と彼が信じる日本へとやってきました。彼が来日した頃は、バブルが崩壊して経済が低迷していたころでした。しかし、そのような状況下でも新しいものを生み出そうとしている日本に、心を動かされたと彼は言っています。日本でイギリスのデザインを活用した様々な活動が女王の目に止まり、2000年に勲章を授かって「サー」の称号も与えられています。二人は共に日本の著名な建築家の元で働き、1991年に共同で東京に事務所を開きました。日本はもとより、世界中からの依頼をこなすと共に様々な学校で教鞭もとっています。西洋と東洋の良さを融合させることのできる二人組です。

「銀座プレイス」の所在地

「銀座プレイス」は、東京都中央区にある銀座の大きな交差点がある場所に建っています。この地域は、江戸時代に銀貨の鋳造所がつくられたことから銀座と呼ばれるようになりました。明治維新の後、文明開化の波が最初に押し寄せてきたのが銀座と言えます。明治維新のすぐ後に、この街は2度の大火でほぼ街全体が焼け落ちてしまいました。その後、火事に強い街にするために、イギリスの土木技師の主導で建物を煉瓦造りにした街並みが作られました。江戸の頃から人々の往来が多かった上、近くに外国人の居留地が作られたので、西洋のあらゆる事柄が銀座に流入してきました。日本で初めてのカフェーが開店したり、アンパンなどの目新しい食品が作られたり、ソーダー水やアイスクリームに代表される西洋の食文化とファッションなど、当時の最先端を発信する街でした。大正時代には、華やかなこの街を目的もなく散策する「銀ブラ」と言う言葉も生み出されました。現在は衣食共に高級店が立ち並ぶ街となっています。

「銀座プレイス」の特徴

「銀座プレイス」は、優雅でありながら清楚なイメージも持つ白いビルです。白いレース編み模様のような外観であり、また、夜には中国陶磁器のホタル焼きのような趣があります。2016年に完成した複合商業施設で、ファサードと呼ばれる外観はピアースド・フレットワークと言う透かし彫りの手法を用いています。古代のギリシアやローマで始まった糸鋸を用いて家具などに装飾を施した方法です。基本は菱形を連ねている形で、上に行くに従って引き延ばされるような形状になっています。また、建物を見る方向によると、連なるラインが波を打つようにも見えます。この美しい模様は、5,000枚以上の複数種類のアルミパネルで作り出されています。また、昼間はガラス面だけで暗く見える2階の細長い場所は、暗くなる時間になるとLEDが点灯して建物本体のファサードと同じ模様が作り出され、バーチャル・ファサードと呼ばれています。夜間では、アルミパネルの隙間に設置されたLEDが点灯して、色々な模様を描き出せるようにもなっています。この光は、季節やイベントによって様々な色で演出できるようにもなっています。7階に設けられたテラスは、大正時代の建築法で建物の高さが100尺(約30m)までと決められていた頃の最上階とほぼ同じ高さになっています。

 

 

 

「銀座プレイス」のまとめ

「銀座プレイス」を作る時に設計者が念頭に置いたことは、銀座の持つ、本物の価値と古いものと新しいものの融合を職人技で表現することでした。洋の東西を問わず、良いところを融合させることで新しいものが創造されていくのは素晴らしい事です。日本における西洋文化の発信をしてきた地に建つ「銀座プレイス」は、古い西洋の技法を使って美しい姿を見せています。銀座と言う高級なイメージと賑やかな繁華街と言う雰囲気を、見事に併せ持つ建物になっているのではないでしょうか。

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