ミュンヘンオリンピック競技場(Olympiastadion München)

「ミュンヘンオリンピック競技場」のご紹介 

 

 キャンプなどでテントの中で眠ったことのある人は多いのではないでしょうか。旧約聖書にも記述のあるテントですが、大変古くから布と木などで作られる簡易の住居として利用されてきました。現在でも、様々なシーンで色々なテントが使われています。「ミュンヘンオリンピック競技場」は、テントを芸術の域まで引き上げたと言っても過言ではない、美しい形をしています。 

「ミュンヘンオリンピック競技場」の設計者 

 

 ドイツ人の建築家で構造家のフライ・オットー(フライ・パウル・オットー)が「ミュンヘンオリンピック競技場」の美しい屋根を設計しました。彼は1925年、当時のドイツ国(ワイマール共和国)の東部にあるケムニッツと言う街で芸術家の父の元に生まれ、ベルリンで育ち、初期教育を受けました。建築を学んだのもベルリンでした。その後、第二次世界大戦の終わり頃に空軍のパイロットとして招集されました。従軍している頃、軍用機の中から破壊される街を見て、大変心を痛めていたようです。終戦を迎える頃に、フランスの捕虜収容所に収容されましたが、様々な資材の不足から寝起きできる満足な場所がありませんでした。そこで彼は、テントの原理を利用した居住空間を作ることに試行錯誤していました。この事が以後の彼の作品に大きな影響を与えたと言えます。戦後はアメリカ合衆国に渡り、当時モダニズム建築の最先端を担っていた建築家の元を訪れ、多くのものを吸収しました。彼は様々な功績を称えられていくつかの世界的な賞を受賞していますが、建築家に授けられるノーベル賞と言われるプリッカー賞の公式発表直前の2015年に89歳で亡くなっています。しかし、亡くなる前に選考委員から受賞が決まった事だけは知らされていました。 

「ミュンヘンオリンピック競技場」の所在地 

 

 ドイツ連邦共和国の南部の都市、ミュンヘンで1972年に開催された夏季オリンピックのメインスタジアムとして「ミュンヘンオリンピック競技場」が建設されました。街の名前は僧院を意味していて、ドイツ語の僧を表す「メンヒ」が語源と言われています。ヨーロッパの南部を東西に横切るアルプス山脈の北側に位置し、大陸性の冷涼な気候の地域で、夏季に30℃を超えることはめったにありません。年間を通して降水量は多く、アルプスから吹き降ろす風によって暴風雨が起きることもしばしばあるようです。内陸にあるこの街は、海まで相当の距離があります。しかし、サーファーにとって素晴らしい場所があります。それは、世界でも有数の川で楽しめる「リバーサーフィン」のホットスポットです。街を南北に流れるイザール川に沿って18世紀に大規模な公園が作られました。その中にはイザール川から水を引いた池や、人工の川がいくつか流れています。その中のアイス川は常に約1mの波が形成されている所があって、大きな大会も催されています。しかし、アルプスから流れてくる水は冷たく、水深も浅いことから上級者向けのようです以前は色々なトラブルがあったようですが、10年ほど前からこの川でサーフィンをすることが公式に許可されています。

 

「ミュンヘンオリンピック競技場」の特徴 

 

 「ミュンヘンオリンピック競技場」が世界的に有名になったのは、美しいとも言える屋根があったからではないでしょうか。オリンピックの取材をするために様々な国や地域からミュンヘンを訪れた多くの記者が最初に紹介したのがこの競技場でした。メイン会場であったことはもちろんですが、芸術作品と言っても過言ではない屋根を「ベドウィンのテント(ベドウィン=砂漠の住人を指すアラビア語が語源の単語)」や「蜘蛛の巣」と称賛を込めて比喩され紹介されていました。東京ドームの約1.5倍の広さをカバーするテント形式の屋根で、70mの高いマスト2本とそれより少し低いマスト6本で支えられています。青味のある灰色の半透明アクリル樹脂が使われていて、それぞれのマストが支えるワイヤーで引っ張られています。競技場の上に展開している部分は、スタジアムの中央を取り囲むように400m以上のワイヤーが円形に張り巡らされて、スタンドの上を覆うようになっています。また、競技場から続いている競技プールや公園、遊歩道も覆う屋根も同じ構造で作られているので、俯瞰で見ると一つの巨大な建造物に見えます。テント形式の屋根はデザイン性も柔軟に表現でき、しなやかさと軽やかさを兼ね備えた芸術作品にも匹敵することが出来ます。「ミュンヘンオリンピック競技場」の屋根は、シャボン玉や植物プランクトンの珪藻、エレガントとも言える整った形の蜘蛛の巣などがデザインの参考にされたことも賞賛された要因の一つではないでしょうか。 

「ミュンヘンオリンピック競技場」のまとめ 

 

フライ・オットーの名が大きく世界に知られるようになったのは、1967年に開催されたモントリオール万国博覧会の西ドイツパビリオンでした。太い鉄骨のパイプに支えられた大規模なテント屋根は現在ではよく見られますが、当時としては画期的な事だったようです。彼は構造家として紹介される事がよくあります。構造家とは建造物を建設する際に必要な強度などを計算して安全な物を作るための構造エンジニアでありながら、さらに当該の建築物を芸術的作品にまで引き上げられる外観を持たせられるものを作ることが出来る人の事を指します。「ミュンヘンオリンピック競技場」は、まさに美術品といっても言い過ぎではない建築物ではないでしょうか 

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