目次しらべ
「南山大学神言神学校礼拝堂」のご紹介
およそ150年前に江戸時代が終わりを告げ、日本は様々な面で大きく変わり、宗教に関しても信教の自由となりました。現在あるキリスト教系の大学の元になる学校も建設され、意匠を凝らした礼拝堂も作られています。名古屋にある南山大学の礼拝堂もその中の1つで、優しい姿をした建物が作られました。
「南山大学神言神学校礼拝堂」の設計者
「南山大学神言神学校礼拝堂」を手掛けたのは、1888年に当時のボヘミア王国のクラドノと言う街で生まれたアントニン・レーモンドです。10代の半ばまでを現在のチェコ共和国の中央にあるこの街で暮らしていましたが、母親が亡くなり、父親の事業が破綻してプラハに移りました。中等教育を終えた彼は、プラハの工科大学で建築を学び、その後、イタリアの大学へも進み、最終的にはアメリカへ渡りました。ニューヨークでは、超高層建築の先駆け的建築家のキャス・ギルバートの元で働いていました。その時に、現在も残っている複数の超高層ビルの建設に関わったことが、後の彼の建築に大きな影響を与えました。特にコンクリート建築に関心を持つようになりました。数年間をキャス・ギルバートの元で働いた後、絵画を勉強するために美術学校へ通うようになりましたが、第一次世界大戦が始まったことから、途中で断念することになりました。しかし、その当時に妻となり、仕事上のパートナーとなった女性と知り合い、結婚しています。それから2年後にアメリカの市民権を取得して正式にアメリカの国籍を得て、姓を故国でのライマンから、英語名のレーモンドに改名しています。アメリカ人となった彼は、近代建築の巨匠と呼ばれる建築家の1人、フランク・ロイド・ライトの元で働くことになってすぐに日本の帝国ホテル建設のために来日しています。彼が来日したことは、後の日本における近代建築が大きく躍進したきっかけとなりました。
「南山大学神言神学校礼拝堂」の所在地
南山大学は愛知県名古屋市の昭和区にキャンパスがあります。広いキャンパスの中にある礼拝堂は、昭和区の八事(やごと)地区に建っています。昭和区は名古屋市のほぼ中央に位置していて、多くの大学や市の中央図書館や美術館、博物館などの文化施設が置かれている名古屋の文教地区となっています。昭和区は1937年に複数の村が合併して名古屋市に編入した時にできた行政区で、当時の年号である「昭和」の名称が使われました。南山大学のある八事地区は尾張丘陵の1部で坂が多い地形です。徳川家が天下統一を果たし、江戸時代が到来してからは、尾張藩は国の重要な藩となって、様々な開発が行われました。新たに開かれた街道沿いに徳川家とゆかりのある「興正寺(こうしょうじ)」が創建されたのは17世紀の終わりころで、現在も残る愛知県唯一の木造の五重塔は国の重要文化財に指定されています。興正寺の裏手には広い雑木林があり、緑地公園となっていて丘陵地帯の名残があります。公園の周辺には複数の大学キャンパスがあり、学生や市民に憩いの場を提供しています。
「南山大学神言神学校礼拝堂」の特徴
1966年に完成した「南山大学神言神学校礼拝堂」は、当時では珍しかった打ち放しのコンクリート製の建物です。内外の壁はむき出しのままのコンクリートで、外観はほぼ灰色で、鐘楼の下に祭壇が置かれた搭を中心とした扇のような形をしています。搭の形は、日本の弥生時代に作られていた銅鐸(どうたく)のような、上部が丸く下に行くにつれて裾がわずかに広がる形になっています。また、正面側の半分が少し細く作られて、背面の半分に入れ子のようになった形状に見えます。銅鐸は吊るして鐘のような使い方がされていたと言う説もあり、日本での鐘楼に使用される形としては道理に適っているのではないでしょうか。搭の上部には等間隔にスリットが入れられて、下にある祭壇を明るくしています。5つの扇型の部分の下は礼拝に訪れる人が祈りを捧げる場所で、ヴォールトと呼ばれる天井になっています。様々な宗教建築で見られる、かまぼこ型になった湾曲した天井で、祭壇を中心として外に向けて広くなっています。搭を中心とした水平の部分に当たる壁には不規則な開口部が作られています。厚みのあるコンクリート壁に穿たれた開口部は、外に向けて少し狭くなっていて、緩やかな円錐、または、四角錐のような形になっています。丸や四角の開口部には赤や青、緑などの彩り豊かなガラスがはめ込まれて、日中には様々な色の光が礼拝堂を彩っています。
「南山大学神言神学校礼拝堂」のまとめ
「南山大学神言神学校礼拝堂」のデザインには、設計者が影響を受けた建築家の作品に似たところがあると言われることがあります。「南山大学神言神学校礼拝堂」が完成する、およそ10年前にフランスで建設された礼拝堂と似ている部分があることは否定できませんが、元は中国から伝わった思想の「温故知新」と通ずるところもあります。長い年月を日本で過ごし、日本の伝統や文化も大事にしていたアントニン・レーモンドだからこそ、このような礼拝堂を作ることができたのではないでしょうか。
コメントを残す