「プラダ青山」のご紹介
イタリアのファッションブランドである「プラダ」の日本における基幹店として造られたのが「プラダ青山」です。皮革製品を作っていた兄弟がミラノにお店を開き、様々な素材を使って鞄を作っていました。それから約百年、今では世界トップクラスのブランドになっています。
「プラダ青山」の設計者
スイスのバーゼルに本拠地がある、ヘルツォーク&ド・ムーロン建築事務所のジャック・ヘルツォークとピエール・ド・ムーロンは、訪れる人が楽しめる面白い建築物を作るべきだと言っています。多くの建物を手掛けていますが、一つとして似ている物はなく、建築場所や目的に合わせ様々な形がとられています。建築材料も多種多様な物を使い、斬新な建物を作り出しています。彼らは「建物は机の上で作られるのではない」との考えで、建築中には幾度となく現場に足を運び、業者などとお互いに納得のいくまで何度も打ち合わせを行っています。彼らは建物を作るだけでなく、建築に於ける様々な事柄の研究や後進を育てる為に教鞭も取っています。アメリカのハーバード大学では客員教授を務め、地元スイスの大学では、およそ20年に亘って建築家を目指す学生を育ててきました。世界的な名誉のある数々の賞を受賞している彼らの元には、様々な国籍を持つ数百人のスタッフがいます。本拠地バーゼルをはじめ、ヨーロッパやアメリカ、アジアの5カ国にオフィスがあり、現在も規模の大小を問わず世界中でプロジェクトを遂行しています。
「プラダ青山」の所在地
東京都港区の北青山から南青山を通称「青山」と呼んでいます。過去の歴史を見ても「青山」だけの地名は存在していません。徳川家康の家臣であった青山家の下屋敷があった場所で、広大な敷地を擁していました。それ以前は、草の生い茂る荒れ地であったようです。江戸が栄えてくると共に、雨乞いや五穀豊穣を祈るために、現在の神奈川県伊勢原市にある霊山の大山詣での為の大山街道が発達してきました。現在の青山通りは、この大山街道の一部で、当時の道しるべとしても使われた庚申塔が今でも立っています。それ以外でも重要な交通路として物資の運搬や人々の往来が活発でした。明治時代には庶民の住宅地として、多くの人々が暮らすようになりました。青山が現在のような姿になったのは、昭和39年の東京オリンピックの時に現在の青山通りの拡張工事が行われて以降です。その後は、民家や商店がビルなどに建ち替わり、今ではファッションの街として、最先端の流行を発信する街となっています。
「プラダ青山」の特徴
「プラダ青山」は、カットグラスのように見えるガラスの建物です。基本的に四角い建物となっていますが、いわゆる屋根の部分がアンシンメトリーな傾斜になっているので、見る方角によって様々なイメージが浮かび上がります。斜めの格子模様がシンプルな美しさを出しています。ひし形を形成している部分が建物を支える役割をしていますが、日本のように地震の多い地域にはこのような建て方は向いていません。それを回避するために、地下に免震装置と言う揺れを逃す構造物が設置されています。ひし形を多く使ったデザインで、建物の入り口も大きいサイズのひし形の下を切り取ったような形になっています。他にも屋内の更衣室などのプライベートを重視する場所は、ひし形をした筒状の部屋が3か所作られています。全面ガラスの透明感がある建物ですが、ガラスは平面の物だけでなく凹面や凸面になったガラスも使われています。このように凹面や凸面のガラスがランダムに組み込まれているおかげで、屋内の様子がそのまま外から見えないようになっています。また、所々にアクセントとして黄色に着色されたガラスも使われています。建物全体はシンプルな形で地上7階なので、あまり大きな建物ではありませんが、厚みのあるガラスがゴージャスな雰囲気を出しています。特に野外が暗くなる時間では、凹面や凸面のガラスが効果を発揮してまるで巨大なクリスタルのように見えます。
「プラダ青山」のまとめ
イタリアのファッションメーカーがスイスの建築事務所に依頼して、日本の工務店が首都に基幹店舗を作ったことは、なんだか国際協力のような感じがします。依頼主の希望と建築場所の地域性と現代の建築技術が、うまくかみ合って初めて素晴らしい建築物が出来上がります。「プラダ青山」は、その良い見本のような建物ではないでしょうか。また、敷地内にはベンチが置かれたプラザと呼ばれる小広場があり、奥の壁面は緑化されていて、建物の周辺にもちょっとした気遣いが伺われます。
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