「ネオ アンデス建築」のご紹介
古代に栄えた文明の痕跡が残る乾燥した台地に新しく建設された街は、色の無い殺風景な街でした。この街で暮らす1人の建築家は、そのことをとても残念に思っていたようです。その建築家が生み出した建物は「ネオ アンデス建築」と呼ばれる、古い民族の伝統と古代遺跡に触発されたとても美しい建物です。
「ネオ アンデス建築」の設計者
「ネオ アンデス建築」を考案したのは、ボリビア人のフレディ・ママニ(フレディ・ママニ・シルベストル)です。1971年に首都ラパスを擁するラパス県に含まれるカタヴェと言う小さな村で、石工の父親の元に生まれました。この村は太古よりこの地に住んでいるアイマラ族の人々が多く暮らしています。彼は10代の初め頃には父親の手伝いをしていて、石工の仕事を覚えました。幼いころから本物の家を作りたいと考えていたようで、身近にある材料を使って様々な物を作っていました。ラパスの大学で土木技術を学んだ後、別の大学で土木工学を学びました。彼が、現在「ネオ アンデス建築」と呼ばれる初めての建物を作った時には、正式な建築の教育は終了していませんでした。首都に隣接した新しい街が建設された時に、無味乾燥の殺風景な景色を憂えて街に彩をつけたいと考えていました。「ネオ アンデス建築」はスイスの山の家を表す「シャレー」と先住民族を表す「チョロまたはチョラ」を合わせた造語の「ショレ」とも呼ばれています。家族と共に建築事務所を正式に開設したのは2014年です。2005年に初めての色彩豊かな「ネオ アンデス建築」による建物を完成させてから、数多くの建物を作っていますが、同じものは1件も作られていません。彼の尊敬する建築家は、アントニ・ガウディとサンティアゴ・カラトラバで、彼らを超えたいと言っています。
「ネオ アンデス建築」の所在地
「ネオ アンデス建築」は南米中西部にあるボリビア多民族国に数多く建設されていますが、特に設計者の住むエルアルトに大小様々な「ショレ」が建てられています。この街は元々首都ラパスの1地区でしたが、ラパスの人口が増えた事と、近隣の農村部からの移住者を受け入れるために1985年に独立した自治体になり、国で1番新しい都市となりました。西アンデス山脈と東アンデス山脈に挟まれたアルティプラーノと呼ばれる広大な高原に位置し、標高が富士山よりも高い4,000m以上にある街で、世界1高い場所にある都市と言われています。標高が高いので、低緯度の割には気温が低く、1年を通して平均気温が10℃以下の冷涼な気候です。しかし、冬季でも氷点下になる事は稀なようです。また、非常に乾燥している地域なので夏季にわずかな降水がありますが、冬季にはほとんど降水はありません。このような気候の場所であったため、20世紀に入るまではほとんど無人の地域でした。20世紀に入ってすぐの頃にペルー北部からの鉄道が敷かれた事から徐々に人口が増えてきました。現在は繊維産業を主とする多種の製造業がこの街の経済を支えていますが、隣接するラパスのベッドタウンとしての役割も大きくなっています。
「ネオ アンデス建築」の特徴
「ネオ アンデス建築」の1番の特徴は色合いと外観の形状です。また、同じ色の組み合わせと形状の建物は作られていません。原色ではありませんが、赤系や緑系、青系など特有の豊かな色彩が使われています。この色は、アイマラ族に古くから伝わる織物に見られる色で、特に女性が身に着ける衣服に使われています。外観の形や窓の形状は、エルアルトから西に約50kmの所にある、世界遺産に登録されている、インカ帝国以前の文明だったティワナク遺跡で見られる石組などに触発されていると、設計者は言っています。遺跡には正確な石組や、コンドルやヘビ、ピューマなど、様々な動物のモチーフが使われていて、それらの形状を彼の解釈で建物に使っています。その為、屋根に色々な角度で作られている三角形や、外壁に円形の窓や開口部が取り付けられています。正面から見るこれらの建物は、1枚のデザイン画のように見えます。屋内は外観以上に華やかな色使いがされていて、草や花などの植物をモチーフにしたものが使われています。壁や柱の塗装は全て手作業で、地元の職人の手で塗られています。大きい建物になると5~6階建てのものがあり、1階は小売店や飲食店が入り、2~3階は集会なども開けるホールやスポーツ用のホールで、上階は住居や宿泊施設になっている物が基本となっています。
「ネオ アンデス建築」のまとめ
エルアルトの街は突貫工事の様相で建設されました。家々は、伝統的な素材の日干し煉瓦や「アドベ」と呼ばれる土壁のような材料で作られていたので、設計者は「色の無い街」と憂えていました。「ネオ アンデス建築」が増えて、多彩な建物が観光客を引き寄せる結果にもなり、世界的にも高い評価を受けるようになってきました。地元の建築会社はそれを知って、フレディ・ママニの真似をするようになりましたが、彼は「街に彩が増えるのであればそれを歓迎する」と言っています。しかし、彼が作り出す「ショレ」は他と一線を画すもので、彼がアイマラ族であることに誇りを持ち、太古の文明にも敬意を払っていることが、そのことの所以ではないでしょうか。
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