ミヒニョフの村の霊廟(Mausoleum of the Martyrdom of Polish Villages in Michniów)

「ミヒニョフの村の霊廟」のご紹介

 

霊廟とは祖先や偉人の霊を祀る建物の事です。「ミヒニョフの村の霊廟」は、祖先の霊はもちろんですが、この村は元より国を守ろうとした人々の霊が祀られている、戦争の悲惨さを伝える博物館でもあります。物言わぬ展示物と、それを納めている「ミヒニョフの村の霊廟」の建物は戦争の痛ましさを伝えています。

「ミヒニョフの村の霊廟」の設計者

 

「ミヒニョフの村の霊廟」を手掛けたのは、ポーランド人のミロスワフ・ニツィオです。彼は、1964年にポーランドの南東部にあるビウゴライと言う町で生まれた、建築家であり、優れた彫刻家でもある芸術家で、首都ワルシャワの大学で建築と彫刻を学びました。その後アメリカへ渡り、ニューヨークの大学でインテリアデザインを学び、卒業後の1989年にアメリカでインテリアデザインのオフィスを開設しました。21世紀が始まる頃に母国のポーランドに戻り、ワルシャワにギャラリーを兼ねた建築事務所「ニツィオ デザイン インターナショナル」を設立しました。彼の手掛ける作品は博物館や美術館が多く、公共施設が大半を占めています。彼が生まれた時には第二次世界大戦が終わって約20年が経過していましたが、国内にはその爪痕がまだ残されていました。彼の作品である博物館の多くは、戦争の悲惨さを伝えていて、彼自身の思いもそこに込められています。博物館や美術館に関しては建物の設計だけでなく、収蔵品の展示や当該施設の概念に沿った館内の視覚的な閲覧方法を構築する事も行っています。つまり、博物館の外側も内側も彼が手掛けているという事です。そのような事から建物と展示物が一体となっているような施設が完成しています。彼の経歴はアメリカから出発していますが、現在はポーランド国内での活動が主体となっています。

「ミヒニョフの村の霊廟」の所在地

 

ポーランド共和国の南部にあるシフィエントクシス県にミヒニョフの村があります。首都ワルシャワから南へ約140kmに位置するこの村は、人口が500人に満たない小さな村です。しかし、ポーランド国内に於いても歴史上の重要な出来事があった場所です。第二次世界大戦中には世界中の多くの場所で悲惨な出来事が起こりました。この村も同じく、村に住んでいたほとんどの人が亡くなり、村そのものも焼失してしまいました。戦争が終わり、戦火を逃れた人々が再びここに戻って村が再建されました。このような悲しい歴史がありましたが、この地域は自然の豊かな場所であり、太古より人々が暮らしていた痕跡もあります。考古学的に意義のある所があり、毎年5月には様々な催しが行われていて、考古学についての講義や、新石器時代の人々の生活を体験するようなイベントが開催されています。また、複数の保護区を含む広大な自然公園もあります。大型の肉食獣は居ませんが、シカの仲間やイノシシ、イタチなどの小動物、多種の鳥類が生息しています。植生についてはモミとカラマツの森が広がり、そこには50種以上の保護すべき植物があって、更に、その中の約40種は絶滅に瀕していると言われています。危うい事実ではありますが、この地域には豊かな植物相が広がっている査証とも言えます。

 

「ミヒニョフの村の霊廟」の特徴

 

「ミヒニョフの村の霊廟」は、2020年に開館したこの村の戦争にまつわる事実を伝える博物館です。東西に細長い建物で、道路に面した正面は、昔からこの地域に建てられていた家のような形になっています。正面から徐々に建物が崩壊していくような形状になっていて、一番東側は屋根も無く、ほとんど崩れた瓦礫だけのようになっていて、最後は森に飲み込まれるような印象となっています。建物本体は、木目のような模様の付いたコンクリートで作られています。建物全体は11に分割されていて、正面からほぼ半分までは屋根もあり、十字の形をした屋根部分や壁の開口部にはガラスがはめ込まれています。前半も家の形が少しづつずれていくようになっていて、後ろ半分はずれ方が加速しているようになっています。設計者のミロスワフ・ニツィオは屋内と展示物の設置も手掛けています。展示物を納めるケースや室内のインテリアに使用された素材は、コンクリートと周辺の民家や農家の納屋などに使われていた木材や、古い鋼などです。敷地の中央に建物があり、その両側には芝生が植えられ、地元で伐採されたカラマツの黒い十字架が、奥に行くにしたがって数が増えるように不規則に建てられています。打ち放しコンクリートの無機質な雰囲気は、歴史の暗い部分を正直に淡々と証言しているような印象を与えています。

「ミヒニョフの村の霊廟」のまとめ

 

「ミヒニョフの村の霊廟」の現在の建物は完成したばかりですが、それ以前には「ピエタ・ミヒニョフ」と呼ばれる像と記念碑、戦争による村の犠牲者の共同墓地がありました。「ミヒニョフの村の霊廟」を建設する計画が持ち上がったのは、1984年の事でした。完成までに長い年月を要したのは、政治的に不安定な時期があり、財政難がそれに追い打ちをかけた形となりました。現在は県都であるキェルツェにある地方博物館の民族学の分館となっています。

 

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