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「ファンズワース邸」のご紹介
古くからヨーロッパやアメリカでは長期休暇を過ごす為に別荘を持つ人がいました。裕福な人々は、週末を過ごすための家も持っていました。このような家を週末邸と呼び、1週間の仕事の疲れを癒す場所にしていたようです。仕事場からあまり離れないで、静かな所に作られた「ファンズワース邸」も週末邸の一軒です。
「ファンズワース邸」の設計者
ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe、1886年3月27日 – 1969年8月17日)
現在のドイツ西端に位置し、オランダやベルギーと国境を接しているアーヘンで石工を営んでいた父のもとに生まれた、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが「ファンズワース邸」を設計しました。後にヨーロッパの近代建築であるモダニズム建築の代表と言われ、巨匠とも呼ばれた彼は、大学等での正式な建築は学んでいませんでした。建築に関する学業としては、若い頃に製図工としての教育は受けていました。勉学の傍ら建築事務所で働き、1912年には独立し、自らの建築事務所を開きました。数々の実績が認められた頃に建築家を育てるための学校の校長も務めましたが、ナチスに追われアメリカに亡命しました。亡命後は現在のイリノイ工科大学で教鞭を取りながら、キャンパスの研究棟やホールなど複数の建物を設計しています。第二次世界大戦の終戦直前にアメリカの市民権を獲得し、それ以来、1969年に83歳でこの世を去るまでアメリカで建築家として活躍して、多くの作品を残しました。
「ファンズワース邸」の所在地
アメリカ合衆国の北東部にあるイリノイ州の北部にプラノと言う町があります。「ファンズワース邸」は、その町のそばを流れるフォックス川に面した森の中に建っています。州の最大の都市、シカゴから西へおよそ80kmに位置する小さな町です。静かな田舎町と言った風情のある所ですが、映画「スーパーマン」で主役の故郷と言う設定でロケが行われた農場もあります。シカゴは、アメリカ第三の都市で、五大湖のひとつミシガン湖の西岸に位置します。近くに炭鉱と油田があったことから、古くから工業が発展していました。また、内陸部の交通の要所でもあり、盛んな交易によって商業も振興していました。その経済力が、1871年の大火の後の復興の為に、数々の鉄骨構造の高層建築物を建てることができた要因です。19世紀の終わりに高層オフィスビルが多く建設されたことが「シカゴ派」と呼ばれ、摩天楼の発祥とされています。更に、近代建築の宝庫とも言われ、20世紀末までは世界で一番高いビルが建っていました。
「ファンズワース邸」の特徴
「ファンズワース邸」は1951年に完成したシンプルを通り越して、とても簡素な家です。第一印象は、なんと言っても見通しの良い家だと言うことです。離れて見ると、そもそも家には思えず、白い柱が数本建っているだけにしか思えません。柱や梁は鉄骨ですが、白く塗られているので、武骨なイメージはありません。特に冬の雪に囲まれた「ファンズワース邸」は、風景に溶け込むような佇まいになっています。サニタリーやキッチン以外はワンルームになっていて、周りは壁の代わりにガラスで囲まれています。東京ディズニーシーの約半分もある、広大とも言える敷地の中のフォックス川のそばに建っているので、プライバシーは十分保てるようです。しかし、この川は幾度も氾濫しているので、そのことも考慮した高床式になっています。幅の広い数段の階段を上がった所に広いデッキがあり、さらに数段の階段を上がって家に入る事が出来ます。地面から1.6mの高さに床が作られたことで、幾度かあった洪水の被害はほとんど受けていません。数々の名言を残している設計者のミース・ファン・デル・ローエが残した、「より少ないことは、より豊かなこと」を実践している家となっています。また、彼が個人宅として設計した最後の家になります。大富豪の女医の為に作られた週末邸ですが、現在はオークションで競り落としたナショナルトラスト(歴史的に意味のある建築物を保護する団体)の一団体が管理しています。
「ファンズワース邸」のまとめ
「ファンズワース邸」は出来上がる前に、依頼主と設計者であるミース・ファン・デル・ローエの間に、納期や費用の事でいざこざがあったようです。裁判にも持ち込まれましたが、彼の方が勝訴しました。このようなあまり美しくない逸話もありますが、この週末邸は今でも美しい森の中にひっそりと建っています。70年以上も前に作られたとは思えないスタイリッシュな家は、完全予約制ですが見学することができます。
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