「浅草文化観光センター」のご紹介
東京の下町と言えば、浅草は代表的な地域の一つではないでしょうか。この町には、昔からの文化が息づき、今に伝承されていることもたくさんあります。多くの観光客が訪れる場所でもあり、最近は外国からの観光客も増えています。「浅草文化観光センター」は訪れる様々な人々に浅草の観光案内などをしている複合施設です。
「浅草文化観光センター」の設計者
1954年横浜生まれの隈研吾(くま けんご)が、「浅草文化観光センター」のデザイン、設計を手掛けました。古い木造の家で育った彼は、家の修繕をする父親の手伝いをしていたことで、建築に興味を持つようになりました。1964年に開催された東京オリンピックの頃、小学生だった彼は、建設ラッシュの街で過ごすうちに将来は建築家になりたいと夢をふくらませていました。大学で建築を学んだ後は、世間にもまれるために大手の建築会社に就職しました。現在は自らの事務所を運営する傍ら、日本やアメリカの大学で教鞭をとっています。また、四国に新しく開設された林業大学校の校長に就任しました。生まれ育った環境や自らの思いもあって、木や竹などの日本に多く存在する素材を活用した建物を作り出していて、「和の大家」とも称されています。大工の棟梁のような風貌の彼が作り出す建物は、新しい日本を映し出しているようにも思えます。彼はとても多くの作品を世に送り出していて、国内の随所で彼の作品を見ることが出来ます。国内の公共建築も多く手掛け、後進の育成にも努めている彼は、2019年に学術や芸術などの分野で功労のあった人物に授けられる「紫綬褒章」を授与されています。
「浅草文化観光センター」の所在地
東京都台東区浅草にある雷門の向かいに「浅草文化観光センター」が建っています。浅草は大変古い歴史のある街で、鎌倉時代にはすでに浅草の地名がついていました。隅田川の河口に近い地域で、飛鳥時代に漁師の兄弟が網ですくった観音様の像を祀ったことに端を発する浅草寺(せんそうじ)の門前町として栄えてきました。江戸時代には海が近い事で、港が整備されて米蔵も建てられました。また、小高い地形の為に、災害時には非難する場所としても利用される地域でした。江戸時代には多くの商人がこの地で店を構え、それに伴って多くの人もこの地で暮らすようになり、大衆文化も花開いていきました。現在の浅草は下町の雰囲気を残す町並みもあり、浅草寺の参拝だけでなく、多くの観光名所を備えた街となっています。
「浅草文化観光センター」の特徴
2012年にオープンした「浅草文化観光センター」の第一印象は、平屋の木造家屋を積み重ねたような形をしていることではないでしょうか。建築から56年が経ち、老朽化が目立つようになってきた前代のセンターを建て替える計画が持ち上がった時に、コンペティションと言われる設計競技が開催されました。東京スカイツリーの開設に合わせるように求められたコンペに多くの案が寄せられ、敷地の制限や、浅草と言う歴史ある文化と世界中から訪れる観光客に与える印象を考慮した隈研吾の案が採用されました。不揃いの木箱を無造作に重ねたようにも見える「浅草文化観光センター」には、多くの木材が使用されています。壁面は、ガラスを覆うように杉の木の格子がはまっていて、京都の町屋に見られる紅殻格子(べんがらごうし)のような雰囲気があります。7軒の平屋が重ねられ、今にも崩れてしまいそうなアンバランスな感じもします。それぞれに屋根も床も作られていて、屋根の部分と床の間にある複数の隙間は空調のダクトなど、様々な設備が収められています。建設の計画が持ち上がった時に、浅草のイメージに合わない建物になったら困ると言うような、地域の複数から反対された経緯があります。しかし、狭い敷地に多くの設備を備えた建物を作るためにはある程度の高さが必要でした。結果としては、心持ち高さを抑えた建物になり、周りの景観を壊さない木のぬくもりを感じさせる施設が出来上がりました。
「浅草文化観光センター」のまとめ
「浅草文化観光センター」は観光案内だけでなく、ユニーバーサル・デザインと言う老若男女、障害のある人や国籍の違いを問わない、誰でも自由に利用できる設備を整えています。8階建ての建物の中には4か国語に対応した観光案内所や休憩スペース、会議室などが備えられ、8階は展望テラスになっていて東京スカイツリーや浅草の街並みが一望できます。内装にも木材が多く使われ、温かい雰囲気でお客様を迎えることのできる施設となっています。
コメントを残す