「ベルリン・ユダヤ博物館」のご紹介
博物館は多様な趣旨で開設されています。
その中でも、史実に基づいた事柄を隠すことなく知らせる事は大事な目的ではないでしょうか。
ドイツにある「ベルリン・ユダヤ博物館」は二度と繰り返してはいけない事を知らせている博物館で、建物そのものも展示物にふさわしい外観をしています。
「ベルリン・ユダヤ博物館」の設計者
「ベルリン・ユダヤ博物館」の設計者であるダニエル・リベスキンドは、1946年にポーランドのほぼ真ん中にあるウッチと言う街で生まれました。彼の両親はユダヤの血を引いていることから、戦時中には様々な迫害にあっていたようで、ホロコーストをかろうじて生き延びることができました。彼は、小さなころからアコーディオンを習い、その才能があったことで神童とも呼ばれていました。10歳の頃にイスラエルに移住し、彼の音楽的才能を伸ばすために奨学金が付与されアメリカに渡ることになりました。
ハイスクールを卒業する頃にアメリカの市民権を得て、歴史や建築などの様々な事を学びました。建築に関する理論や思想を発表することが多く、「建築しない建築家」と呼ばれていました。しかし、「ベルリン・ユダヤ博物館」の設計をコンペで勝ち取ってから一躍有名になり、事務所を開設し、事実上の建築家としての活動を始めました。その後の彼は、博物館や美術館を多く手がけていますが、近年では商業ビルなどにも関わっています。その代表的な建築物は、2001年にテロで破壊された「世界貿易センタービル」の跡地に建てられた「フリーダムタワー(1ワールドトレードセンター)」があります。
「ベルリン・ユダヤ博物館」の所在地
ドイツ連邦共和国の首都ベルリンは古くからヨーロッパの中心的都市でした。国際政治の中心であるだけでなく、様々な文化の中心でもありました。しかし、それ故に多くの戦いの場にもなりました。ベルリンは約30年前まで市内が二つに分断されていました。第二次世界大戦の後、敗戦国であったドイツは当時のソ連と西側の国々に分断、占領されました。東西に分断されたドイツはベルリンのみ行き来が出来ましたが、東からの人口流出が多かったため最終的に市内を分ける壁が作られてしまいました。1989年に東ドイツの政府の不手際によって、不本意ではありましたが東西の往来が許可され、「ベルリンの壁」の崩壊につながりました。以後、二つのドイツとベルリンは再び一つになることができました。
「ベルリン・ユダヤ博物館」の特徴
「ベルリン・ユダヤ博物館」は、建物そのものが、この博物館の趣旨を表しています。何より特徴的なことは、出入り口が作られていないことです。この博物館に入館するためには、隣に建っている18世紀に裁判所として作られた建物の地下にある通路を通らなくてはいけません。中世ヨーロッパの建築物に見られるバロック様式の建物とは対照的な外観をしていて、リベスキンドの建物(リベスキンドビル)とも呼ばれています。上から見ると変則的なギザギザの形をした建物で、「幾何学の迷路」と呼ばれている理由がよくわかります。チタンと亜鉛の合金製の壁には傷跡のように見える不規則な細い窓があり、まるで黒雲の中を走る稲妻のようです。この窓は内部から見ると、外部からのわずかな光が差し込んで内壁を切り裂いているようにも見えます。展示物と一体化した建物で、屋内は様々なエリアに分かれています。それぞれの意味を込めた作りになっていて、地下から最上階までの何もない吹き抜けや、行き止まりの階段、理由があって足を踏み入れることのできない場所もあります。基本的に無彩色の寒々とした雰囲気がありますが、この博物館の意味を考えると当然のことかもしれません。
「ベルリン・ユダヤ博物館」のまとめ
ベルリンの壁があった場所に建てられた「ベルリン・ユダヤ博物館」は2001年に開館しました。新たな世紀に突入した年に開館したこの博物館は、歴史の証人の役割を果たしています。ベルリンの壁があった場所に建っていることは、第二次世界大戦の負の遺産としての博物館の意義を考えると、これ以上適切な立地条件はなかったのではないでしょうか。また、設計者のダニエル・リベスキンドはユダヤの血を引く人物です。ある意味ホロコーストを生き延びた彼は、ユダヤの文化と悲しい歴史を伝える博物館を作るのにふさわしい建築家と言えるでしょう。
コメントを残す