ピラミッドとナイル川 巨大建築を支えた水の道

エジプトのピラミッドを写真で見ると、巨大な石の建築が砂漠の中に立っている。

そのため私たちは、ピラミッドを「砂漠につくられた建築」だと思いがちである。

しかし、4500年前の景色は今とは違っていた。

ピラミッドの建設を支えていたものの一つが、ナイル川だった。

石を運ぶ水路として。人を運ぶ道として。そして、古代エジプト人の暮らしと信仰を支える大河として。

ピラミッドとナイル川を一緒に見ていくと、巨大な石造建築がなぜこの場所に生まれたのか、その姿が少しずつ見えてくる。

ナイル川と沿岸の耕作地

ナイル川と、その両岸に広がる緑の耕作地。
水のある場所と乾燥した大地との境界が、エジプトの風景をつくっている。

1 砂漠だけを見ていては分からない

現在のギザ台地から見ると、ピラミッドとナイル川は離れている。

そのため、クフ王の大ピラミッドに使われた約230万個とも推定される石を、どうやってここまで運んだのかという疑問が生まれる。

しかし、それは「現在の地形」を見ているからでもある。

川は動く。

流路を変え、枝分かれし、土砂によって埋まり、やがて地表から姿を消すこともある。

4500年前のナイル川も、現在とまったく同じ姿ではなかった。

ピラミッドを理解するには、建築だけを見るのではなく、当時の「水の地形」まで考える必要がある。

2 2024年、失われたナイル川が姿を現した

2024年、ピラミッドとナイル川の関係を考えるうえで、非常に興味深い研究が発表された。

研究チームは、衛星レーダー画像、地球物理探査、地中から採取した堆積物などを組み合わせ、現在では地表から見えなくなっている古代ナイル川の河道を調査した。

その結果、ギザから南のリシュト付近まで、ピラミッド群に沿うように延びていた大きな古代河道が確認された。

研究者たちは、この失われたナイル川の支流を「Ahramat Branch(アフラマト支流)」と名付けた。

「Ahramat」はアラビア語で「ピラミッド」を意味する。

いわば、「ピラミッド支流」である。

研究によれば、確認・推定された河道は約64キロメートルにわたり、幅は約200〜700メートル。現在のナイル川から西へ約2.5〜10.25キロメートルの位置を流れていたと考えられている。

アフラマト支流とエジプトのピラミッド群

ギザ、アブシール、サッカラ、ダハシュール、リシュトのピラミッド群と、
古代のアフラマト支流、現在のナイル川との位置関係。
ピラミッド群が古代河道に沿うように分布していることが分かる。

出典:Ghoneim, E. et al., Communications Earth & Environment 5, 233 (2024), CC BY 4.0.

3 31基のピラミッドと一本の川

研究対象となった古代河道の周辺には、古王国時代から第二中間期にかけての31基のピラミッドが存在する。

ギザだけではない。

アブシール、サッカラ、ダハシュール、リシュトなど、エジプトを代表するピラミッド地帯が、ナイル川西側の細長い地域に連なっている。

なぜ、これほど多くのピラミッドがこの地域に集中したのだろう。

アフラマト支流の研究は、その理由を考える重要な手掛かりを与えた。

現在は砂漠や農地となっている場所の近くに、当時は大きな水の道が存在していた。

研究では、光学衛星写真だけでは見えない旧河道の痕跡を、レーダー地形データや地球物理探査、ボーリング調査などから追跡している。

アブシール付近のアフラマト支流の復元図

アブシール付近の古代河道を示した研究図。歴史地図、衛星画像、レーダー地形データなどを比較することで、現在は地表から見えにくくなったアフラマト支流の痕跡が復元されている。

出典:Ghoneim, E. et al., Communications Earth & Environment 5, 233 (2024), CC BY 4.0.

古代アフラマト支流と現在のナイル川の地形図

レーダー地形データから読み取られた古代アフラマト支流。
現在のナイル川とは異なる場所に、かつての河道や蛇行の痕跡が残されている。

出典:Ghoneim, E. et al., Communications Earth & Environment 5, 233 (2024), CC BY 4.0.

4 ピラミッドには「川へ向かう道」がある

古代エジプトのピラミッドは、巨大な三角形の建築だけで完結しているわけではない。

ピラミッド複合体には、ピラミッド本体の近くに葬祭殿があり、そこから長い参道が低地へ伸び、その先に河岸神殿が置かれる例がある。

ピラミッド → 葬祭殿 → 参道 → 河岸神殿 → 水路

という一つの建築・交通システムとして見ることができる。

2024年の研究で特に興味深いのは、多くのピラミッドの参道が、復元されたアフラマト支流の方向へ延びていることである。

さらに、現在まで部分的に残っている屈折ピラミッド、カフラー王、メンカウラー王、サフラー王、ペピ2世の5つの河岸神殿は、研究で復元されたアフラマト支流の河岸に隣接している。

研究チームは、この支流がピラミッド建設時代に機能し、人や建築材料を運ぶ水路として利用された可能性を示している。

5 石を運んだことを書き残した男

ここで、アフラマト支流の研究より約4500年前に書かれた、非常に興味深い記録が登場する。

「メレルの日誌(Diary of Merer)」である。

メレルは、クフ王の治世末期に活動していた監督官だった。

ワディ・エル=ジャルフで発見されたパピルスには、メレルとその作業班の日々の活動が記録されている。

その中には、トゥーラ地域で石灰岩を積み、船で「アケト・クフ(Akhet-Khufu)」、すなわちクフ王のピラミッドの建設地へ向かったことを示す記録がある。

メレルの日誌 ワディ・エル・ジャルフ・パピルス

ワディ・エル=ジャルフで発見された「メレルの日誌」として知られるパピルス資料。
クフ王時代、メレルの作業班がトゥーラ地域からギザへ石灰岩を船で運んでいたことを伝える貴重な記録である。

これは重要である。

「古代エジプト人は、おそらく船で石を運んだのだろう」という推測だけではない。

クフ王の時代に、実際に石灰岩を船で運んでいたことを伝える記録が残っている。

ただし、この日誌自体は、その石灰岩が大ピラミッドのどの部分に使われたかまで明記しているわけではない。研究者は、時期や石材の性質などから外装への使用との関係を考えている。

6 トゥーラの石灰岩をどう運んだのか

前回の「ピラミッドの秘密」で見たように、クフ王の大ピラミッドの主要部分にはギザ周辺の石灰岩が使われている。

一方、外装にはトゥーラ地域から運ばれた良質な石灰岩が使われたことで知られている。

採石場で石を切り出す。

石を船に積む。

ナイル川と水路を使ってギザへ運ぶ。

そして、建設地の近くで荷揚げする。

こうして考えると、大ピラミッドは採石場と建設現場だけを見ても成立しない。

その間を結ぶ「水の道」が必要だったのである。

7 さらに遠いアスワンから花崗岩が来た

もっと驚くのが花崗岩である。

大ピラミッド内部の王の間などには、エジプト南部のアスワン地域から運ばれた花崗岩が使われている。

ギザからは遠く離れている。

しかも花崗岩は重く、石灰岩より硬いため、加工も容易ではない。

それでも古代エジプト人は、必要な場所には遠方の石を選んだ。

アスワンの古代花崗岩採石場

アスワンの古代花崗岩採石場
巨大な石材を岩盤から切り出していた場所が現在も残されている。

アスワンで石を切り出し、ナイル川を北へ下り、ギザへ運ぶ。

ナイル川は、エジプト各地の石材産地と建設地を結ぶ、巨大な「建材輸送路」でもあったのである。

8 石を持ち上げる前に、石を集めなければならない

ピラミッドの建設方法を考えるとき、多くの人が最初に考えるのは、

「巨大な石をどうやって上まで持ち上げたのか」

という問題である。

もちろん、それは大きな謎である。

しかし石材を扱う立場から考えると、その前にもう一つ巨大な問題がある。

「どうやって建設現場まで石を持ってきたのか」。

どれほど優れた石積み技術があっても、材料が届かなければ建築は始まらない。

ピラミッド建設とは、石を積む技術だけではない。

採石、加工、船積み、水運、荷揚げ、陸上輸送、揚重、施工。

それらすべてをつなぐ巨大な物流システムだったのである。

9 ナイル川は「道」だった

私たちは「道」というと、地面につくられた道路を想像する。

しかし古代世界では、川こそが巨大な道だった。

特に石のような重量物では、水で運ぶことの意味は大きい。

これは古代エジプトだけの話ではない。

世界各地の都市や文明が、大河や海、運河の近くで発達し、建築材料もまた水を通って移動してきた。

ナイル川とピラミッドを描いた歴史画

ナイル川を行く船と遠方のピラミッドを描いた歴史画。
19世紀の作品であり古代の風景そのものではないが、川とピラミッドを一つの景観として考える手掛かりになる。

ナイル川を「川」ではなく「道路」と考えてみる。

すると、ピラミッドの立地がまったく違って見えてくる。

10 なぜピラミッドはナイル川の西側なのか

もう一つ興味深いことがある。

ギザ、サッカラ、ダハシュールなど、多くの王墓やピラミッドはナイル川の西側に位置している。

その背景を考えるとき、地形や水運だけでなく、古代エジプト人の太陽観や死生観も重要になる。

太陽は東から昇り、西へ沈む。

東は太陽が現れる方向。

西は太陽が沈む方向。

古代エジプトでは、太陽の運行と死、再生の思想が深く結びついていた。

西方は死者の世界と強く結びつけられ、墓地や葬祭建築の立地を考えるうえでも重要な意味を持った。

ナイル川と西岸の砂漠

ナイル川沿いの緑と、その背後に広がる乾燥した大地。
水、耕作地、砂漠という異なる環境が近接していることが、ナイル流域の大きな特徴である。

つまりピラミッドの場所には、

地形、水運、石材、太陽、方位、信仰。

いくつもの要素が重なっている。

11 「風水と建築」と同じものが見えてくる

もちろん、古代エジプトに、中国で後世に体系化された「風水」が存在したという意味ではない。

しかし、「風水と建築」で見てきた考え方と比べると、興味深い共通点がある。

建築だけを単独で考えないことである。

山を見る。

川を見る。

太陽を見る。

方位を見る。

大地を見る。

そして、その中に人間の建築を置く。

文明も時代も思想体系も違う。

それでも、人間が巨大な建築をつくろうとするとき、自然環境との関係を無視することはできない。

ピラミッドもまた、大地から切り離された建築ではなかった。

12 川が消えて、ピラミッドだけが残った

ナイル川は、永遠に同じ場所を流れる川ではない。

水量が変わり、河道が移動し、土砂が堆積する。

長い時間の中では、かつて大きな川だった場所が農地や砂漠の下に埋もれてしまうこともある。

アフラマト支流も、やがて流量を失い、地表から姿を消していった。

しかし、ピラミッドは残った。

そのため現代の私たちは、砂漠の中に巨大なピラミッドが突然つくられたような風景を見ることになった。

ここが、この研究の面白いところである。

ピラミッドは動いていない。変わったのは、その周囲の風景なのである。

13 石を見ると、川が見えてくる

ピラミッドを「石」から調べ始める。

すると、石灰岩の採石場へ行き着く。

トゥーラへ行き着く。

アスワンの花崗岩へ行き着く。

そして、

「この石は、どうやってここまで来たのだろう」

と考える。

するとナイル川が見えてくる。

さらに川を調べると、失われた古代の地形が見えてくる。

地形を見ると、ピラミッドの配置や方位、太陽、信仰へつながっていく。

一個の石から始めても、最後には文明全体へたどり着く。

それが天然石を調べる面白さなのかもしれない。

14 ピラミッドは「大地と水の建築」だった

ピラミッドは巨大な石造建築である。

しかし、石だけでつくられたわけではない。

石を生んだ大地があった。

石を運んだ水があった。

方位を定める空があった。

太陽があった。

そして、それらを読み取り、石を切り、船で運び、積み上げた人間がいた。

「天・地・人」という言葉を古代エジプトへそのまま当てはめることはできない。

しかし、巨大な建築が自然と人間の関係の中から生まれたことは確かである。

現在、砂漠の中に立っているピラミッドを見るとき、その足元にもう一つの風景を重ねてみたい。

4500年前、そこには水があった。

船が行き来し、人が動き、石が運ばれていた。

そして、その水の道の先に、巨大なピラミッドが立ち上がっていった。

ピラミッドを見ることは、石を見ること。
石を見ることは、大地を見ること。
そして大地を見ることは、そこを流れていた水の記憶を見ることでもある。


参考資料

2024年に Communications Earth & Environment に発表されたアフラマト支流に関する研究、およびクフ王時代のワディ・エル=ジャルフ・パピルス(メレルの日誌)などを参考に構成しています。

Ghoneim, E. et al. “The Egyptian pyramid chain was built along the now abandoned Ahramat Nile Branch.” Communications Earth & Environment 5, 233 (2024).